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ミツバチの羽音と…、反省会

昨日10日は、中学校の運動会だった。前の日がハードでやや疲れ気味、だけど、いい場所を入田時代のご近所さんがちゃんととってくれてて、ゆっくりテントの中で観覧できました。
うちのチビけっこうでかくなってました

この前、林野高校に用事で行ったら、運動会やってたけど、意外にたくさん親が観に来ているんですよね。
何歳まで運動会観に行く気なんだ

で、土曜日はホントに疲れ切って早く寝ちゃいました。金曜の疲れでしょうね

で、今日日曜日は湯郷の道つくり道つくりと言っても入田でやってたような又か池まで約1キロをずっと草刈りしていく必要もなく、河川花壇の整備だから一人一人の負担が非常に少ない。部落内の連絡だったり顔見せの場だね
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そのあと、昼食会を兼ねた反省会、みんなまじめな人ばかりで、原発問題についてどうみんなに訴えて行けばいいのか。どうしたらみんなが真剣に考えてくれるのか話し合っていました。
僕の小学校のときの先生にも会い、ちょっと褒められたりしてかなりうれしくて、ちょっと涙が出そうになりました。(小学校のときはちょいちょい悪さしてるところを見つかってよく怒られてましたけど…)

そのあとは、久しぶりにピアノの練習に行きまして、なんとな~くゆっくり目のパイレーツオブカリビアン弾いてきました

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村上彩子さんと美作中学校吹奏楽部のコラボコンサート

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こんなチラシできてます。この白黒は広報紙折込用です。

二次被曝

放射能の恐怖、湾岸戦争での劣化ウラン弾攻撃から3年たったころからイラクの子供たちを悲劇が襲った。

8月6日に聴いた新エネルギー映画の監督の話を思い出す。

浜田省吾さんのお父さんも、原爆投下後広島に入り救護活動をしていて二次被曝した人だ。

彼の歌からは、父への感謝・平和への祈り・社会への憤りがメッセージとして伝わってくる。

彼のロックは理想を追い求め、現実社会に反抗する 音楽ジャンルとしてちゃんとした意味を持つロック。

昨日の続きで今日は浜田省吾さんのお父さんの体験記をまたまた無断で添付します。

カラオケで歌うJ-BOYがもっと心に響くはずです



賛同者・浜田省吾さんの父・敏太さんの原爆投下朝の体験記

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 昨年の暮れに中国新聞社の方から「広島世界平和ミッション」に寄稿を依頼され、
広島で救援活動中に二次被爆した父のことを書きました。
明けて、2004年の正月に姉宅を年始で訪ねた時に、
姉から「お父さんの原稿が出てきたのよ」と、これを渡され読んだ時、
あまりの偶然に驚きました。
内容が父の「原爆投下の朝の体験記」だったからです。

 残念なことに、おそらくは長い体験談になったであろうこの原稿は、
第一章までしか書かれていません。
日々の忙しさに追われ、そのままになってしまったのでしょう。
それとも、この先を書くことが精神的に困難だったのかもしれません。

 これを書いた当時、父は54歳で大竹署に勤務しており、
定年を次の年にひかえていました。
私は18歳の予備校生で初恋やら家出やら、今思えばまさに青春していた時期でした。
そんな私も今やこの当時の父と同じ世代になり、感慨深いものがあります。

 この原稿は校正せず、そのままタイプしました。
途中数個所判読できない字があることをご了承下さい。

 これをタイプしている今日は2004年4月30日、父の17年目の命日です。


浜田省吾


 ◇  ◇  ◇

 ■原爆被爆26周年に憶(おも)う/ 大竹署 浜田敏太

 はじめに

 あれから26年、被爆地広島市が世界平和のシンボルとして、
生々発展してゆくよう心から祈ろう。

 今被爆当時の記憶をペンで綴(つづ)ろうとするとき、
いささか抵抗を感じるのは何故だろうか。
私だけの心の片隅に、そっとしておきたかった、
それが原爆犠牲者、そして先輩、同僚の霊に対する礼であろう。
多くの体験者は静かに見守り、祈りを捧げているではないか。
そして広島市と私の体内に滲(し)みついた悪夢にも似た傷跡をかき廻すことの
おろかしさと不安…さまざまなほろ苦い感情と疑問のもつれがうずまく心地がするのです。

 勿論文才のないことは論外としておこう!

 最近各専門家によって多角的に資料が収集され、
高度な文筆技術等によって広島の記録が著書「広島原爆戦災証」として
近く出版されると聞いているとき、今日の記念日のできごとを瞑想しつつ、
当時の記憶の一ページを一気に書きなぐってみたくなったことを了承願いたい。

 原爆投下の前夜

 当時私は木江署(1)で兵事、労政主任をしていた。
広島市に原爆が投下された数日前だった。
広島市において、広島?隊区司令部主催による、各署の兵事主任会議が開催された。

 8月5日、私はこの会議の状況を各市町村役場の兵事政労関係者に
急遽(きょ)伝達の使命を携えて、管内の豊島村に行き、
その日は豊島駐在所に一泊させてもらった。

 その晩、福山、今治市がB29の空襲を受けたのを駐在所の一室で見た。
今治市の場合は比較的距離も近いので、照明弾、続いて焼夷弾投下が繰り返され、
見る間に夜空を焦がす状況が手に取るようであった。

 竹槍訓練や防空体制の強化叫ばれている時、
こうして毎日のように、つぎつぎと各都市が空襲の被害に見舞われていったのである。

 会議に出席して

 翌8月6日、午前7時過ぎから豊島村役場で広島?隊区司令部の伝達会議を開催した。
8月の太陽は会場一杯に照りつけ、会場は熱っぽい空気に満ち始めたころだった。

 閃光一閃(せんこういっせん)!
瞬間、出席者一同が目を見張った。
雲ひとつない青空だ、稲妻でもない。
しかし、あの強烈な光ぼうは一体何だろう?
不吉な予感と憶測が入り混じり、会場内はざわめき、会議は一時中断した。
しかし会議中何事もなかったかのように会議は予定どおり終了した。

 原子雲を見た

 続いて私は次の目的地である、御手洗町(2)に向かった。
波静かな海上を、豊島から小さな渡し舟で、大崎下島(3)に渡り、
徒歩で矢?港に到着したときだった。

 船待客の一団が、広島方向の上空を見上げながらどよめいていたので、
私は何事かと振り返ってみると、
キノコ型の雲が豊島の北端山頂の青空に浮かび、
むくむくと広がってゆく異様な光景を見た。

 船待客は、
「ひどいこと やられたもんじゃのォ」
「こんなァ B29の爆弾ぐらいじゃぁ あがんならんよのォ」
「スパイが侵入って広島の火薬庫を爆破したんじゃろう」
「それにしても火薬庫ぐらいじゃ あがにならんじゃろう」
「火薬庫と云っても、火薬の他にもいろいろなものがあるけのォ」
「そうかのォ」
たわいもない話は繰り返された。
すると今度は、一人の船待客が付近のラジオの傍で、
「このラジオは先刻まで、大きな声で放送していたが、
ピカッと光ってから放送せんようになったんじゃ、
それが今何やら言いだしたんじゃ 」

 私もラジオの方に近づいて、耳を澄ましていると、
「大阪放送局、こちらは広島放送局です。聞こえますか、
聞こえたら返事をして下さい 」
と…悲痛な叫びが、かすかに繰り返され、応答を求めていたが…

 私は先を急いだ。
灼熱(しゃくねつ)の太陽が降り注ぐ中を徒歩での山越えである。

 上着を脱いだ。剣が重く、歩くのに邪魔になりはじめたので、
剣の先端に脱いだ上着を引っ掛けて、肩にかついで一路御手洗町に向かった。

 出動命令

 午前11時頃だった。本署との連絡用務もあり、途中「大長駐在所」(4)に立ち寄った。
そこで私を待っていたのは、本署からの命令であった。
「今朝、広島がやられた、被害は甚大らしいが通信網もやられており詳細はわからない。
とにかく大崎下島在住の警防団、医師、看護婦を最大限に動員し、
君が指揮して、直ちに広島へ救援に行かれたい。」

 私は深く頷(うなず)いた。

 駐在所をはじめ、地方の方々の積極的な応援を得て、
180名に及ぶ多数の参集と救急薬品などを取り揃(そろ)えて、
借り上げ船に乗り込み川尻港に向かった。

 広島への道は遠かった

 搬送列車に乗った。海田駅が近くなった頃、車掌がやって来て、
「この列車は広島がやられたため、海田駅で折り返し運転をしておりますので、
海田駅で降りて下さい」と…。
海田駅で下車した私達救援隊は、徒歩で広島に行くしか方法が無い。
広島に近づくにつれて、破壊と混雑で行く手は遮られた。
状況判断の結果、山陽本線北側から東錬兵場に入ることに決定したのである。

 広島が燃えている黒煙は夕焼けに映えて、上空を覆っている。
私達救援隊は遅々として日暮れの田んぼ道を、広島へ、広島へ、黙々として歩き続けた。
中には暑さと疲労で列外組も出始めるようになった。

 もう広島への道は近い、しかし広島への道は遠かった。

 その夜の広島で

 1名の落伍者もなく、東錬兵場の広島駅裏に到着した。
そこで私達を待ちうけていたのは、生死の境をさまよう、
おびただしい数の被爆者と猛火に狂う広島の夜であった。
「こりゃぁひどい、まるで生き地獄じゃのォ」と誰かがポツリと呟いた。

 救護本部への連絡は至難と諦め、その夜は野宿することにして、明日を待った。
隊員はみんな疲れていた。だが休んではいられない、と言い聞かせているようであった。
今まで一番バテていると思われた医師と看護婦は、必死に訴える被爆者の要求に応じて、
持参した医療品を取り出して、早速救護活動にとりかかった。
殆(ほとん)どまどろみもしないで夜明けをむかえようとする姿には頭が下がった。
各救援隊員も眠れないまま、焼け爛(ただ)れた被爆者が必死に求めている水を運んでは与えた。
被爆者は水を飲んで満足そうに眠った。
そして朝、被爆者はもう起き上がらなかった。
私は合掌した。

 【編注】(1) 木江署(広島県豊田郡) (2)御手洗町(広島県豊田郡) (3)大崎下島(広島県豊田郡) (4)大長駐在所(広島県豊田郡)



人類には共通の暦がある/浜田省吾さん

8月26日、美作中学校吹奏楽部が尾岡山県の代表として中国大会に出場
中国大会は広島の文化交流会館ていうところであった。そう、あの広島平和資料館や原爆ドームのすぐ近く。
僕らは早起きして高速を飛ばし、会場で美作中学の演奏を聴いた。
出場校の演奏はどこの学校もよく訓練されていて、甲乙つけがたい素晴らしい演奏だった。
美作中学の演奏も本当に素晴らしく、先生の指導と生徒たちの練習の賜物だと感じた。
成績は銅賞ということだったが、極めて金賞に近い銅賞なんだと僕は感じている(例えその間に銀賞があってもそういう問題ではなくね)。彼らの今日までの練習こそが金賞であって彼らの財産なんです。結果はいつもいろいろです。現実はそんなにドラマチックじゃありません。一つ一つの積み重ね、勉強とか練習とか努力だけが確実に少しずつ自分の力の素になる。(練習した時間は無駄なことなんかじゃないよ)
一通り演奏を聴いた後、あまりの眠さと会場の冷房による冷えに耐えかねて、少し会場の外を散歩してみた。
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すぐ近くの平和資料館は以前にも入ったことがあるけど、原発事故のあった今年改めて入って勉強したかったが、ゆっくりじっくり観る時間はなさそうだったので、そのまま原爆ドームの方へ歩くことにした。
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原爆ドームの前では、被爆者が放射能の怖さを写真や資料を使って若い女の子に教えていた。一見チャラチャラした格好に見える彼女たちはその話を真剣に聞いていた。
大事な話に耳を傾けるか、楽しい芸能界の話だけ聞いて騒いで過ごすか、彼女たちは大きな財産と生きる力を得たと思う。そう、あの劣化ウラン弾の話なんかもしていた。海外の旅行者も真剣な面持ちで聞いていた。
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以下は広島世界平和ミッション2004~2005の中であの浜田省吾が投稿している文章を勝手に添付させてもらいました。今年の3月11日も日本の多くの人にとって共通の暦になるはずです。
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人類には共通の暦がある/浜田省吾さん


ルーレットは回り続けている
テーブルに積まれた切り札の陰で
誰も皆 勝つことだけを信じて賭けを続ける


憎しみは憎しみで
怒りは怒りで
裁かれることに何故気づかないのか

愛の世代の前の一瞬の閃光に
すりかえられた脆い希望など崩れ落ちていく
(タイトル:「愛の世代の前に」 アルバム:「愛の世代の前に」より 1981年)

 人類が誕生し数百万年、欧米の暦では「B.C.」という記し方がある。キリスト登場前(Before Christ)と、それ以降という考え方だ。

 ということであるならば、今年は「A.C.」(After Christ)つまりキリスト登場後2004年となる。しかし、「暦」と言うものは民族や宗教によって異なるものだ。

 ところで私には「人類には共通の暦がある」という私見がある。それは、After Atomic Bomb(A.A.B.)だ。核兵器誕生以前の人類と、1945年8月以降の人類は全く違う時代を生きているのだ。A.A.B.60年になる。
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地下から地下へ運ばれた爆発物
国家に養われたテロリスト
成層圏に軍事衛星
It's A NEW STYLE WAR

飽食の北を支えている
飢えた南の痩せた土地
払うべき代償は高く
いつかA NEW STYLE WAR

貧困は差別へと
怒りは暴力へと


受けいれるか
立ち向かうか
どこへも逃げ出す場所は無い
It's A NEW STYLE WAR

愛は時に あまりに脆く
自由はシステムに組み込まれ
正義はバランスで計られ
It's A NEW STYLE WAR
(タイトル:「A NEW STYLE WAR」 アルバム:「J-BOY」より  1986年)

1945年8月6日、父は広島県豊田郡の木江署に勤務していた。
「広島の弾薬貯蔵庫が爆発したらしい。」
「アメリカの新型爆弾らしい。」
情報が錯綜していた。
ある者はピンク色した大きな雲を西の空に見たと言う。


父に下された命令は、地元青年団員、医者、看護師を組織し、広島市に救助に赴け、というものだった。
救助隊と共に広島に向かった。


猛火のため市内に入れず、広島市周辺部で待機した。
熱にアスファルトが溶けた道。
市内から逃れてくる被災者達の容態。
火が衰え、市内に入って経験した状況。
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「生き地獄としか表現しようがない。」と父は言った。
その日、江田島から学習旅行で「原爆資料館」へ行った小学生の私に、父は1945年の夏の体験を話してくれた。
苦しそうだった、話したくなさそうだった。
思い出したくなかったに違いない。
しかし、息子に話す義務を感じていたのであろう。

戦後、私が生まれる前、父は内臓を悪くした。
髪が全て抜け落ち、顔が茶黒く2倍位に腫れ上がったという。
当時出回っていた粗末な酒のせいか、と思ったらしい。


「原爆資料館」を訪れた日から2週間後、朝刊の一面に「第三次世界大戦」という活字があった。
「キューバ危機」だった。悪夢にうなされる浅い眠りの日々が続いた。

1987年4月、父は膵臓癌(すいぞうがん)のため69才で逝った。
貧困の中で生まれ育ち、戦中戦後を生き抜き、子供達を育て、やっとゆとりが出来た頃、亡くなってしまった。

父を誇りに思っている。
深く感謝している、
私に人生を与えてくれたことを。
子供達の世代により良き人生を受け渡したい、と思う。

おろかな男達 権力にむらがり閉ざしていく 未来への最後のドア
混乱と憎悪と暴力に満ちているこの世界
祈りを銃弾に変え
壁は崩れ 溝は深まり 人を愛すにも命がけ

…罪人を誰が裁ける

今夜 お前はガソリンを燃やして 家族の待つ家へ帰る
「幸福」という名の車の「エゴ」という名の車輪を廻して

(タイトル:「裸の王達」 アルバム:「その永遠の一秒に」より 1993年)

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