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出張復命書

平成23年8月4、5日と東京アルカディア市ヶ谷にて第18回全国地域リーダー養成塾修了者研修会が行われました。1日目の4日は午後1時30分から全国からの参加者約120名が8つの分科会に分かれパネルディスカッション及び意見交換会を行いました。私は去年の私の所属したゼミ担当講師であり恩師である明治大学大学院教授の山下茂先生の第4分科会を受講。パネリストに山下先生の自治省の3年後輩という現帝京大学教授 内貴滋先生を迎え、「一村一品」に学ぶというテーマでパネルディスカッションに参加しました。
内貴先生からは昭和54年、自治省から大分県に赴任、地域振興課長として、平松知事と一村一品運動を展開した苦労話やらぶっちゃけ話を聞かせていただきました。
一村一品の理念は受け身の自治体が自らのリスクで自らの足で立って行動すること。補助金は一切出さない。お金を求めるところからは何も生まれない。というもの。
しかしこの崇高な理念は市町村、県庁内部から大きな反発を食らうことになります。
現在は一村一品どころか一市町村5B級グルメくらい、何が何でも何かでその地域の生き残りを模索するような町おこしイベント勃発状態ですが、当時は地域興しと言ってもさほど地域の人々、地方行政機関ともその意識が高くなかったようであり、一村一品運動はその当時として、自分の住んでいるまちを、自分たちが自治を行っているまちを御上から下への流れだけの自治ではなく、自分たちの頭で考え、自分たちの足で前へ進むよう謂わば地方自治体の尻を叩くような政策的意図があり、やはり先駆的、模範的な事業だったんだなと思われます。しかしながら、市町村からの反発は予想以上のものがあり、運動を展開するのにはかなりの精神疲労が生じたようです。唯一の救いが、平松知事が発案し、最後までポリシーを曲げず先頭に立ってくれたおかげでなんとか運動が開花したようです。
また内貴先生はあの竹下内閣でのふるさと創生一億円事業にも担当者として携わっており、こちらも地域が自ら考えて行動を起こすという本来のねらいがあったにも関わらず一億円のばら撒きの方にばかり非難が集中して困ったという話を聞きました。
マスコミが地方の無駄遣いの部分だけを取り上げ、有効活用されているところをほとんど取り上げなかったということも聞きました。
この二つの地域活性化政策は手法こそ正反対のようですが、ふるさと創生も一村一品も真の狙いは共通していて、地域の人々が自らの地域の資源とその潜在能力を知りふるさとへの誇りと愛情を育むことを目的としています。
ふるさと創生では確かに1億円というお金をばらまいていますが、一村一品は補助金を出さずに各市町村にムーブメントを起こしていったということです。公助を先に立てて、お金で尻を叩くのか、はたまた自助、互助でがんばり真の力を引き出すのか。先生たちの話を聞いているとどっちもありに感じました。
ちなみに山下先生も同じころ岡山県時代に地域振興助成金かなんか堅い名前の地域支援事業をやっていたらしいのですが、当時なかなかうまく機能しなかったそうです。
 また一村一品というネーミングについても話題を呼ぶに事欠かない議論を巻き起こしたそうです。しかし、そのネーミングが功を奏し全国で話題となり海外でもみの名前を使った地域振興は今なお盛んに行われています。
2日目の5日は、塾生及び卒塾生一同が日本一元気な商店街と言われる「佐世保四ヶ町商店街」の竹本慶三さんの特別講義でした。
こちらは、完全に自助、郊外の大型店舗の出現に不安を感じた商売人たちのまちづくの物語です。商店街の商売人たちで始めた町興しなので当然資金集めから商売人の知恵を結集し、広く浅くお金を集め、大きな成果に結び付けています。ここでも行政にお金を頼らない、あてにしないということが、市民参加型のお祭りを成功させた秘訣だということを強く感じました。そこで思い出したのは、去年お話を聞かせてもらった大村夢ファームの館長さん。今回の竹本さんと共通する考えはお金を払って参加するから市民が市民の祭りとして楽しめる。お金を払っているから楽しめる。という考えです。二人の考えでは「どうして行政の人はなんでもサービスしたがるのか」「ただでは何のサービスも受けられない。当然の社会を行政だけが勘違いしている」やはりこちらもかなり先駆的で模範的事例です。なんでも無料。その癖がついてしまうのが一番よくないですね。それからこんなことも。アイデアはいつも瓢箪から駒ならぬ「冗談から駒」から生まれると。いつも非真面目程度がアイデアを生むこつだそうです。
このリーダー塾には全国から毎年40人が地域おこしを勉強するため研修に参加しています。岡山県内では真庭市が毎年塾生を送り出しています。またゼミの仲間や同期の仲間たちからの実践経験などから様々なまちおこしの手法を学び、また相談することができています。今年度実施している美作ふるさと塾、ふるさと検定、オンパク手法等は活性化センターの友達や同期の仲間から多くの知恵を提供してもらい参考にしています。また去年塾生として机を並べた同期には今年の4月から市会議員として活躍している人もいます。   
残念ながら今年度、美作市からの塾生はいませんが、本当に勉強になる研修だと思われます。来年度以降、真面目に地域を憂う気持ちのある若手職員の研修参加をお願いしたいと考えます。
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終了レポートのプレゼンがおおとりに(^_^;)

終了レポートみんな緊張して発表するんです。僕の場合慣れないパワーポイントに悪戦苦闘しているのに、またもやプレッシャーが…。
3日間掛けて塾生全員がレポート発表を行います。一流大学の講師陣や派遣元の市長や人事担当が見守る中、みんな緊張して発表するらしいです。
僕の発表はその最終日の最後となってしまい、非常に緊張しています。持ち時間は13分、長くても短くてもいけません。練習のとき、何も原稿を持たずに話したら、やたらあーうーと詰まってしまったので、本番は原稿を元に練習をしっかりして臨もうと思います。
僕のレポートの最後はありがとうと感謝です。だから、最終に選ばれてしまったのですが、精一杯、感謝の心、そして感謝の心を持つことで生まれる「品格」を表現し、美しい心を作る美作をアピールしてきます。

追伸 なんと、漏水直っちゃいました(^_^;)

リーダー塾卒業レポート

「美しく作るまち美作」へ はじめの一歩     
( ~美作版プチ・シビック・トラスト活動~ )
                    
岡山県美作市 
はじめに

 岡山県の北東部、美作市内を流れる吉野川の護岸には約20年前の中学生が作成した巨大壁画があります。描いた当初は、湯郷を訪れる観光客が車から見ることのできる湯郷温泉ゆかりの円仁法師と岡山を代表する桃太郎の絵が、とてもきれいで観光にも一役買うと好評だったことから4年間継続で計6枚作成し4学年の中学生がこの壁画作成に携わりました。
 しかし、現在では、ペンキが剥げ落ち、ブロックが汚れ、ブロックの隙間からは草が生い茂り、当時のきれいな絵の印象とは随分と形を変えてしまっている現状です。
 そこで、当時の中学生が30歳を過ぎた今、「美しく作る美作」を目指し、まちづくりの一助になればという想いと、自分たちの思い出を大切にしたいという想いから、当時の同級生を集め、修復に向け美作市との協働事業により計画・作業実施を行いました。
 一言で色の塗り替えと言えば簡単なことのように感じますが、ペンキを使うまでの準備作業である草刈りやブロックの清掃こそが実は大変なことで、7月からは、まさに草との戦いで、ほぼ毎週、日曜日の午前中は河原に集まりボランティア作業を行いました。
 同級生の多くがお盆で帰省する8月14日は、計画の最大イベントとして、県外に出ている当時の同級生にも声をかけ、また後輩でもある現役中学生やそのPTA及び一般参加者と共にペンキの塗り替えを行うボランティアイベントを開催し、美作のまちにボランティアとは何かを訴えかけるきっかけを作りました。イベント後は塗り残した絵の修復と、今後の草取り作業等ボランティアによる継続が議会でも話題となり市民の関心を集め、その後の動向が見守られています。
 今回のレポートでは、自分自身もまだはっきりとしたものが見えていない、協働とは?ボランティアとは?を、地元の若者とともに手探りで始めたこの壁画修復作業を題材に、実際に気づいたこと、成功・失敗と感じたこと等の「学び」を発表したいと考えています。結果、幸福の政治経済学でいうところの公共に主体的に参加することでの喜びや幸福感を、美作の地に浸透させていけるきっかけになればと考えています。

第1章 美作市の概要~美しく作るまちへ~
(1)美作市の概要
 美作市は人口約32,500人、面積約429平方キロメートルで、岡山県の北東部に位置した自然豊かなまちです。旧来よりこの地域では、恵まれた自然環境を生かし、そのなかで培われてきた歴史や伝統、文化等を保ちつつ、その資源を生かしたまちづくりや地域の発展のための活動が行われてきました。
 観光面では、美作三湯の一つ湯郷温泉や剣聖宮本武蔵・少林寺拳法開祖宗道臣生誕地関連施設、因幡街道大原宿本陣・脇本陣などの歴史的建造物のほかに、岡山国際サーキットやベルピール自然公園、トムソーヤ冒険村などのレジャー施設が点在しています。
 これら地域固有の財産を生かしつつ、「賑わいのある田園観光都市みまさか」を目指して地域活性化に取り組んでいますが、人口は年々減少し、急激な少子高齢化により主な産業である農林業を中心に後継者不足に悩まされ、かつて賑わいを見せた商店街もシャッター街となり、湯郷温泉への観光客も減少の一途をたどっています。
 岡山県北の近隣市がB級グルメで活気づくなか(津山市のホルモンうどん、真庭市の蒜山焼きそば等)、美作市では、今こそまちづくりの原点に立ち返り、市民が誇りを持ち、暮らして良かったと感じることのできる優しいまちづくりを目指すべきではと考えています。

(2)ドリームプラン推進室誕生
 平成21年4月、新市長が就任し、「疲弊する過疎地域に活力を復活させよう。住民自らが立ち上がりふるさとを見直すきっかけを作ろう。」と、より市民目線で地域住民と一緒になって活動できる市長直轄のまちづくり部署ドリームプラン推進室を設立しました。推進室では「ふるさと教育(地域の歴史や遺産を保護し後世に伝えることで郷土愛を育む等、ふるさとを愛する心を養う教育)」の推進という視点に立ち、地域のありふれた、「足元にある材料」を見直し、住民協働で一人一人がやりがいを感じるまちづくりを一歩ずつ進めることを目的としています。
 ところが、21年7月に発足し、早々に竜巻災害、8月には豪雨災害と美作市は相次いで大災害に見舞われ、出来たばかりの推進室は活動の休止を余儀なくされ、時限的に出来た災害支援室の業務に追われる状況になりました。

(3)「美作」という名前の資源(足元にある材料)
 明けて平成22年1月、災害支援室の業務も一段落し、ドリームプラン推進室は活動を再開し、市民向けまちづくり講演会を行いました。そのときの講師、日本ふるさと塾の萩原茂裕先生が、「まちづくりは人づくり」と題した講演の中で「美作という美しい名前を活かしきれていない。湯郷温泉に泊まって、朝散歩してみたが街がきれいではないのが残念。」と話されました。
 萩原先生はこの地には「美作」という美しい名前がある。美しく作ると書いて「美作」、これは間違いなくこの地の資源の一つであると言われるのです。美作の「作る」という文字には「ニンベン」があり、これには人を作るという意味もある。「美作」というまちの名前は、美しい人(心)を作ると読めるので、この美しい名前に誇りを持ち大切にしなければいけないというのです。ここで、まちも美しく、住む人々の心も美しく「美しく作るまち美作へ」という一つの目標が生まれました。ドリームプラン推進室が最初に目指したものは、私たちが日頃意味など考えることがなかった「美作」という名前を大切にして、それに恥じないまちづくりをすることでした。

第2章 ボランティア作業による吉野川護岸巨大壁画の復活
(1)現状
 かつて備中倉敷(現在の倉敷市)とともに賑わいを見せ、美作倉敷とも言われていた現在の林野地域(現在では典型的なシャッター商店街)を流れる吉野川の左岸壁には、約20年前に地元の美作中学校の生徒によって描かれた巨大壁画があります。描いた当初は新聞等にも紹介され、中学生が美術の授業を利用してまちおこしをしたと話題になり、草刈等の清掃作業もPTAを中心に活発に行われ壁画の維持管理も出来ていました。当初の4年間は空いているスペースに次々と新しい学年により壁画の制作が行われ、ある意味年間行事の一つになっていました。
しかし、人々の関心は徐々に薄れていき、近年では年に一度、PTAの奉仕作業時に、付近の草刈り程度の清掃を行うにとどまり、現在はほぼ手入れをされていない状況になってきています。ブロック面の隙間からは草が生え、ペンキが剥げ落ちている箇所がたくさんあり、当初のきれいな壁画からは想像できない、むしろ景観を阻害する要因にさえなっています。
生年代 描いた時期 描いた絵
昭和51年4月~52年3月生まれ 平成2年 (1年目) 円仁法師・ももたろう・鷺
昭和52年4月~53年3月生まれ 平成3年 (2年目) ラグビー
昭和53年4月~54年3月生まれ 平成4年 (3年目) 梅
昭和54年4月~55月3月生まれ 平成5年 (4年目) サッカー
各年代が作成した壁画一覧表     
 市民のなかには、この状況を見て、湯郷温泉の玄関口として、もう一度きれいな観光壁画に塗り直したいと思っていた人もいたようです。しかしながら、思ってはいてもなかなか個人の力では取りかかるきっかけが作れないのが現実でした。

(2)修復のきっかけ
 そうした状況の中、前述で紹介しました萩原先生の講演を聴き、自分のまちのために何かしてみたいと考える人たちが出てきました。その中に、中学時代に自分たちが描いた河川の壁画が今では汚くなり、反って景観を阻害してしまっている。掃除して塗り替えをしたいという意見がありました。周辺の意見も聞いてみましたが、やはり壁画の修復を希望する声は、実は多かったのです。こうした小さいけれども前向きな意見を大切にしなければいけないという想いと、少年期の思い出を振り返ることの出来るこの修復計画が、ふるさと教育のきっかけになると考え、壁画修復作戦を始めました。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

(3)実施計画「ふるさと回帰」
 平成22年3月、美作市は市制施行5周年を迎え、市の木に「梅」、市の花に「かたくり」が決定しました。現在の壁画では「町の花ウメ」(合併前の美作町の花がウメ)と書かれており、巨大な梅の絵が描かれています。これを機に「市の木ウメ」に変更しなくてはいけません。また、他の絵には男子サッカー選手が描かれておりますが、それを現在なでしこリーグで活躍中の岡山湯郷ベルのユニフォームに塗り替え、髪を長くして女子サッカー選手に変えてみてはどうか等、ちょっとしたアレンジで時代に沿った絵に変える。当初の絵のイメージが崩れてはいけませんが、遊び心を活かした小さなアイデアで修復を楽しみながら、今の美作市にあった絵に塗り替えてみてはと考えました。
また、実際の絵の修復作業は、当時(20年前~17年前)この壁画を描いた生徒(美作中学校の卒業生)を中心に実施してもらう。この絵は彼らがふるさとに残した大切な思い出であるということを最大限尊重したいと考えました。もちろん現役の生徒さん、現PTAのみなさんを中心に、一般のボランティア・市職員等ボランティア総動員の作業になると思いますが、当時の絵の作成者である彼らが作業の中心となり計画を進めてほしいと考えたのです。社会人になり、結婚し親になったばかりの若い彼らに、市民協働によるまちづくりに携わることでの喜びやふるさとの懐かしさやあたたかさを感じてもらう絶好のチャンスでもあります。また市外県外で働く卒業生には、ちょっとした同窓会の場を提供し、ふるさとを振り返って想う、ふるさと回帰のきっかけになる事業ではないかと考えました。

(4)幸福の政治経済学「住民参加」
 この時点で、ペンキ等の材料代は市が負担し、それまでの清掃等はボランティアによる協働作業。塗り替え実施日は県外の卒業生が帰省する8月14日(土)という青写真ができあがりました。しかし、こうした計画を行政側だけで決めてしまっては、主役となる卒業生たちが主体性を失い、結果今までの行政主導で押しつけられただけのおもしろくないイベントにならないよう、自分自身が彼らの側にたち、彼らとともに何度も打ち合わせをする必要があると感じていました。
そんなとき、幸福の政治経済学の話を聞きました。「幸福の政治経済学」という書の中で、スイスの州住民の幸福感の差違は、州ごとに異なる直接民主制の充実程度によって、説明できるというものです。これは、人々の幸福感とは経済的豊かさよりも政治的参加によるところが大きいというものでした。絵を描いた卒業生自らが主体的に企画運営することにより、この企画はより一層の達成感や充実感を生み出し、彼らにふるさとを顧みるきっかけを与えるだろうと確信しました。今まで、「公共」や「まちづくり」には無縁であった若い彼らに「参加の場」と「小さな幸福感」を与えられる絶好の機会だとも捉えられるようになりました。

第3章 実際の活動報告
ここからは、壁画塗り替えまでの実際の活動報告を3期に分けて紹介します。
(1)関係機関への報告・説明・協力依頼(4月)
4月に入ってすぐ20年前の実施主体である美作中学校を訪ね、校長先生・教頭先生にこの企画を報告し、そのことによるふるさと教育の趣旨に賛同をいただきました。その後、PTA会長とも会い、賛同及び協力をお願いしました。また、壁画のある地域の地区会長や漁業組合を訪ね事業実施の了解を得ましたが、両者ともこれまでの経緯からボランティアによる作業ということについては、持続性に懸念を持たれていました。
次に、実施主体となる卒業生への呼びかけですが、実際に絵を描いた卒業生で現在市役所に勤務している人が何人かいましたので、先ずその人たちに声をかけ、夜に市役所の会議室に集まってもらいました。修復に向けて計画をしていることや、地域の活性化に向けての取り組みをみんなで協力して実施してもらいたい旨を伝えました。
 私は、この企画は彼らにとって、自分自身の少年期の思い出を掘り起こし大切にするものなので、全員が懐かしさややりがいを感じ、積極的に話に乗ってくるだろうと考えていました。しかし、実際話し合ってみると積極的に意見を出し、次の準備に進もうとする者もいれば、自分から同級生にボランティアの依頼をすると友達から迷惑がられるのではないかと心配する人もいて、同じ世代でも考え方にはずいぶんと違いがあるということを知りました。彼らにはリーダー的存在になってもらい、その他のボランティアを引っ張っていってほしいと思っていたので、少し不安な要素も感じてしまいました。
 話し合いの中で、当時の様子を思い出してもらいました。新たに判明したこととして、昭和52年生まれの生徒が描いた壁画(2年目ラグビーの絵)については、ラグビーの絵が、サッカーの絵に塗り替えられているということです。これは、2002年のワールドカップサッカー大会の際、美作町がスロベニア代表チームのキャンプ地となり、歓迎の一つとしてサッカーの絵に塗り替えたということでした。彼らの大切な思い出が既に一つ無くなってしまっていたことに私自身がショックを受けましたが、10年前にもボランティアを集めて絵を塗り直した人がいたということには少し驚きと明るい材料を感じました。もちろん十分な準備期間が無かったものと思われ、塗り替えた部分は単に色褪せただけのものと違い、ペンキ自体が汚れて前の絵と新しい絵が混ざり合い、何を描いているかさえわからない部分があり今後の課題として確認し合いました。
当時の美術の先生も訪ねてみました。実際にどの程度のペンキが必要になるか、その他にどのような点に注意をすればよいか、20年前の実施状況を思い出してもらい助言等をいただける協力を依頼しました。先生は退職されており、現在は他の中学に非常勤でお勤めでしたが、この企画には非常に懐かしさを感じられ、何でも協力すると言って頂き、20年前の資料(新聞記事・広報・原画・作業写真)を借りることができました。もう一人、当時の美術の先生がおられ、訪ねてみましたが、家が火事に遭い当時の資料が全部燃えて無くなってしまったということでした。この資料が前述でも出てきた塗り替えがあった絵です。この絵についてはデザインの復元が困難な状況になってしまいました。
関係者の了解は得られたので、現場を確認し、次の説明会用の写真を撮るため清掃を行いました。しかし、現地は簡単に清掃できるような状況ではなく、写真を撮って会議の資料にすれば、清掃作業の困難さばかりが伝わってしまうのではないかと思われ、写真は少し引き気味のものを使いました。全体に除草剤を蒔き、なんとか絵が見える程度に草刈りを実施しましたが、なかなかの重労働であることを自分自身確認しました。

(2)試し塗り等現地確認期(5月~6月)
5月に入り、美作中学校において打ち合わせ会議を行いPTA会長・校長・卒業生(地元にいる各学年4名程度)・ドリームプラン推進室3名にて方針日程等協議しました。「幸福の政治経済学」の話しを基に、計画を一緒に考えるために何度も打ち合わせをしたい旨を話しました。先ずは全体の作業量や作業時間、必要材料やペンキ量を量るためにも早期に一番小さな絵を試し塗りして、その結果を受けて作業日程等を計画することになりました。
 試し塗りをする絵は、一番小さな円仁法師の絵ですが、この清掃だけでもかなり重労働でした。ブロックの間の草・苔の除去、そしてブロック面の清掃をして準備完了です。ブロック面の清掃には水道事業所から借りた高圧洗浄機を使います。これは、長年に渡ってこびりついた黒ずみや古いペンキがきれいにとれます。かなりの重労働ですが、きれいになっていくことはそれ自体かなり楽しい面もあります。
5月30日 スタッフ15人で円仁法師の絵を塗り直しました。午前9時から12時までの約3時間で700枚のブロックにペンキで色をつけました。この作業は想像以上に楽しく過ごせる3時間でした。やはり現地で一緒に作業することは、このスタッフたちに「出来る」という実感と、チームワークをもたらしたようです。基本的なことですが、先ずは参加し実践することが大切なのです。
後日、試し塗りの結果を受けての今後のスケジュール等の確認を行いました。結果、判明したことは①ブルーシート等必要備品の確認と確保。作業に必要な物は主に使い古しのものを持ち寄って使う。その他必要な物は会費からなるべく安価なものを購入する。②ペンキはすぐに乾くので塗る順番をそれほど綿密に計算する必要はない。③一人当たりの作業量の確認。個人差はあるが、一人が1時間で15枚程度塗ることが出来る。等のことを確認しました。また、「壁画を守る会」を作って会費を集め来年以降も活動を継続する。当面は自分たちの持ち寄った会費にて活動することを話し合いました。
その後も現地清掃と会議を行いながら、具体的に塗り替える絵を決めたり、卒業生が帰省する8月14日土曜日にボランティアを集めてペンキ塗り替えイベントを行うことを確定しました。

(3)塗り替えイベント及びその準備期間(7月~8月)
7月からはほぼ毎週、会員と賛同してくれる友人等が河原に集まり、草・苔と3時間程度戦いました。この時期はかなり暑くなり、太陽光のおかげで草もどんどん伸びる時期です。腰に負担がかかりかなり重労働なのですが、日曜日の午前中仲間たちと汗を流す作業にはほとんどの会員がストレスを感じている様子はなく皆一様にいい顔をしていました。

美作中学校で行われた学年懇談会にて、資料とチラシを配布、説明と協力依頼を行いました。このとき同時にブログを作成し、経過報告の窓口として利用を始めました。
日曜日毎に清掃活動を行っていると、近所の方からジュースの差し入れを頂いたり、卒業生の年代以外にも協力したいという人が集まってくれ始め、心強さを感じました。この喜びが、時間に追われて焦っていた気持ちに少し余裕をもたらせてくれました。また、水道事業所や会員の中の建設会社から借りた高圧洗浄機、商工会から借りた大きなイベント用の給水タンク、消防団からは小型ポンプを借り、必要なものをあるところから借りてきて、無駄な費用をかけないで作業を進めていきました。作業後半には消防団の協力を得てポンプ車からの放水により水洗いを行いました。そうした関係機関の協力に感謝しながら、なんとか準備を進めて行くことが出来ました。
準備途中には国際ボランティアとして美作市にホームステイしている外国人の若者10名に「美作」という文字をイベントに先駆けてペンキで塗ってもらいました。外国の方が美作という漢字を書くその様子を市内のケーブルテレビで放映してもらい。8月14日の塗り替えイベントの告知に利用しました。
 イベントが近づくにつれ最終的な清掃、高圧洗浄の作業を急ピッチで行いました。この頃の作業は朝から日暮れまで続き、最終の清掃作業とデザインの細かな部分のペンキ塗りは前日までかかりました。あとは当日、雨が降らないことを祈るばかりでした。
8月14日土曜日、塗り替えイベント当日は朝方少し雨が降り、不安が頭をよぎりましたが、トラブルはトラブルで最善の努力をしながら楽しもうと会員の気持ちを一つにして、それぞれが打ち合わせのポジションにつきました。同窓生約70人、美作中PTA他一般ボランティア参加者約30名、計約100名が吉野川壁画前に集結し作業にあたり、巨大梅の木の絵、巨大桃太郎の絵、巨大サッカーの絵が復活し、円仁法師と併せると計4枚の巨大壁画に新たな命を吹き込みました。会員のみんなには、結果より過程が大切、気持ちが大切と言い続けてきた私ですが、対岸から見るペンキ塗り立ての巨大壁画はまさに生まれ変わり、命を取り戻したように感じられ、大いに感動しました。またその状況は、各地のお盆帰省の様子ということでNHKが中四国版夕方のニュースで取り上げてくれました。
 参加した同窓生は、久しぶりに会う懐かしい友達と中学時代の話しに盛り上がり、各学年で集まり、作業が終わってもなかなかその場を離れないという状況があちこちで見られました。地元の会員にとっても、暑い中、休日ごとに草や苔と戦い続けた彼らと、当日塗るだけの帰省組では作業量や思いに違いはあるはずですが、彼らには、むしろ主催者としての誇りや満足感があるように感じられました。
 一般の参加者のみなさんの中にもこういう企画には大賛成なので、是非とも協力したい。美作市にもボランティア登録の制度を作っていただきたいと言われる人までありました。
ボランティアに参加した市会議員さんが、9月議会でこの壁画作業での市民の一体感について、感想を報告してくれました。美作市民へのボランティア・協働に対する意識改革のきっかけになったはずです。


第4章 まとめ(参・産・讃)

イベント後も塗り替えた絵の清掃維持活動は続いています。彼らは確実に自分たちが修復した壁画に対して愛着を持っています。私も含め草の状態が気になるので時々河原に足を運んでいるようです。そして、月に一度程度、連絡を取り合い10人程度が川に集まり草を抜いています。10時から始まり12時に終わるパターンなので、作業後は近くの食堂で一緒に昼食を取りながら今後の活動について話し合っています。主な話題は、今後の自己資金調達の方法や別の地域での清掃活動等のボランティア活動への参加、そして一番多いのは、塗り残している壁画の塗り替えをいつするかということです。実は壁画群の真ん中にある壁画だけは塗り直してないのです。前述で紹介した元の絵と内容が変わってしまっている絵です。当時の美術指導の先生の家が火事に遭い、原稿は無くなっています。これについては、実際に描いた年代の会員とよく協議してデザインを複製していく方針ですが、卒業式シーズンの3月までにはきれいな状態にしてやりたいという意見が出ています。実際、最近は塗り直した絵の前でクラス写真を撮っている風景をよく見かけます。この絵を今回の再生事業の対象にしなかったのは、実は作戦の一つです。次にする仕事を残すことで、経験を生かし、継続し次に繋げることが出来るはずです。
この壁画修復は、足元にある材料を生かして、美作を本当に美しく作り直したいという想いから始まり、若い世代に自分たちがふるさとに残した思い出を振り返り、そしてボランティアという形で実際に参加することで今まで感じることすら忘れていたふるさとへの回帰の想いを呼び起こし、郷土愛を育んでいくという趣旨のものでした。しかし、そうしたコンセプト以上に私の心に残ったものは、人と人との繋がり、ボランティアに協力してくれた人、何度も現地に足を運んでくれた人と、その繋がりに対しての「感謝」「ありがとう」の気持ち、人の心です。人と人との繋がりはそれだけで十分人を幸福にします。「ありがとう」の数と幸福度は比例すると納得してしまいます。まだまだ私自身が「ボランティア」や「協働」という言葉の持つ意味を理解し切れていない現状ですが、こうした形で公共に参加することで見えてきた幸福感は私にも参加した人たちにもあったはずです。
6月の会議中、こんなことがありました。会議の進行を考え、レジメの中に腹案をたくさん盛り込んだことがあります。ところが、まさに最初に計画を実施したいと提案してきた後輩が、「こんなに何もかも決めていたら、話し合いする必要がないではないですか」と怒る場面がありました。私も他の会員も少しあっけにとられたのですが、責任感の強い彼女(保育士さんです)には、彼女なりに一つずつみんなで知恵を絞って積み上げていくことこそ、まちづくりの基本だという想いがありました。そして、そのことを彼女に話したのは当の私自身であり、彼女にとっては、少し裏切られたような感情を覚えたそうです。しかし、このことは、彼女の責任感や主体的に関わろうとする参加の意識の表れであり、実は非常にうれしく感じていました。責任感の強い彼女は最初から最後まで中心になって動き、ずいぶん大変な思いをさせてしまいました。
しかし、なんと言ってもはじめの一歩です。今の部署に異動してすぐに淡路島で木村さんという方から聞いたまちづくりの基本の言葉「サンサンサン」を思い出しました。淡路島は太陽が燦々と注ぐまち。太陽のサンと燦々のサンでサンサンサンですが、その言葉にはもう一つ大切な意味が存在しています。
最初のサンは参加の「参」、次のサンはそれぞれが思いやりをもって話し合うことによって新しいアイデアが産まれる「産」、最後のサンは実行し、そのことを評価し讃え合う「讃」。この参・産・讃こそまちづくりにとって大切な基本であると教えていただいたことを思い出しました。
今後は、「美しく作るまち・美作」の実現に向け、また住民自身が自発的・積極的に意欲を持って参加できるまちづくりに向け、自治体と住民が情報を交換し、知恵を出し合うことが出来るネットワークづくりと、地域での支え合うしくみづくりをその地域にあった方法で考えていきたいと思います。自分たちが築いた環境を自分たちの手で修復するこの活動は、英国ロンドンに本拠地を置く独立の慈善団体「シビック・トラスト」のモットーである「人々が生活し働いている地域に愛着を持ち、その世話をする」考え方にもマッチしたものです。この後、10年、20年後もこの壁画が色褪せないよう、美作のまちが色褪せないよう、我々の継続力に責任の一端が係っていることを認識し、活動の価値を尊重し地域づくりを行っていきます。

吉田紗保里のコーチ、栄和人氏の講義

記念写真
今回は、壁画作業から少し離れて、地域リーダー養成塾での特別講義の報告をします。

テーマ「究極の人材育成~自ら学習し、育つ環境づくり~」吉田紗保里のコーチ、栄和人氏の講義

 記憶が途切れ途切れで申し訳ないですが、忘れる前に(今日が12月6日)覚えていることを記録しておきます。先ず栄先生は高校生のときにレスリング高校チャンピオンになりました。その後、謂わば鳴り物入りで日本体育大学に進学。進学当時は将来学校の先生になることを目標に軽い気持ちで日体大でのレスリング部生活を始めた。1年生のときに先輩の2年生から体育会系の指導を受けるも要領が悪く、よく失敗していた。失敗すると先輩からの理不尽な罰が待っており、素直に応じるものの、レスリングの実力だけはあるので、よく練習時に仕返しをしたらしい。しかし、2年生にはなんとか自分の(高校チャンピオン)力が通じるものの、3年・4年が相手になると、まるで歯が立たなくなり、実力・練習量の違いを思い知らされる。
 3年生くらいのとき(よく覚えてないが…)くらいに鹿児島県代表として国体に出場。通常日本チャンピオン級の選手は国体には出ないが、同じ階級には自分より実力が確実に上で先輩の日本チャンピオンがいた。先輩には勝てないと思いながら決勝で対戦。試合開始早々負傷していた右足を攻められ立て続けにポイントを取られ負けを確信するも、時間が進むにつれ相手が攻めあぐんでいて、息が上がっていることに気づく。ひょっとしたら勝てるかも知れないと思い、がんばり、ついには日本チャンピオンを破って優勝してしまった。その時まで「それなりに」レスリングに取り組んできたが、「本気でやればこんな俺でもオリンピックに行けるかも知れない」と考えるようになり練習に明け暮れる。ここで初めて本気で世界を目指すようになったのです。因みに同席した吉田沙保里選手は13歳の時から世界を目指したそうです。
 その後、全日本チャンピオンにもなり、オリンピック代表は確実と言われていた頃、選考会を目前にして、地元に帰ると、マチを上げての大歓迎で「栄和人君、オリンピック出場おめでとう!」等の大段幕などが用意され、地元の期待の大きさを感じた。決勝戦が近づくにつれ家族や地元の期待に応えようという気持ちが重圧になり、夜な夜な悩まされるようになる。早く決勝戦が終わってほしい。早く終わってくれれば勝ち負けなんかどうでもいい。がんばれば負けてもいいじゃないかと、考えるようになり次第に気持ちが弱くなっていった。結果、決勝戦で実力的に負けるはずのない若手に敗れてしまいオリンピックの夢は費えてしまうのです。対戦後、すぐにはその悔しさに気付かなかったらしいですが、翌日、泥酔するまでお酒を飲んで、家に帰ったとき、これでオリンピック出場を逃したという大きな事実に気付き「どうして、あんな負け方をしたのか」「もう一度試合をさせてくれ」と泣き叫ぶ、その後、3ヶ月間は周囲の心配をよそに完全ひきこもり生活に入り、鬱状態になる。
 ふと実家に電話をしたところ、母がすごく心配していたこと、父が心配のあまり体調を崩したことを知る。そこからまた闘志に火がつき再びレスリングに没頭し、全日本選手権に優勝し、オリンピック出場切符を手にする。
その後、指導者の道を歩むがメダリストではない栄先生に男子の指導者の席はなく、これからが期待される女子の指導者となる。ここで、自分の教え子にも自分と同じ苦悩を与えることになるのです。女子オリンピック代表は51キロ級がなく55キロ級に吸収される仕組みになっていた。当時の51キロ級日本チャンピオンは坂本選手、48級には坂本選手の妹がオリンピックを目指している。55キロ級は人類最強の吉田選手がいる。坂本・吉田どちらも強い選手でともに栄コーチの教え子であったが、選考会は吉田選手が勝利し、オリンピックに出場し金メダル。坂本選手は自分の階級で勝負できなかった悔しさや辛さからか、レスリングをやめてしまい、病院に通い、薬を飲むようになり、51キロ級の体が80キロまで太ってしまったという。栄先生は、本当につらい思いをさせてしまったと感じ、何度も何度も家を訪ね励まし、支えたそうです。その後、坂本選手は自衛隊に入り再び選手として立ち上がります。鬱になる年の前3年間は全日本チャンピオン、鬱になった年をとばして後の3年間もチャンピオンに返り咲いたそうです。
 ここまでの話しの中で、吉田選手はあまり出てきませんが、この二人のどん底まで落ちて這い上がってきた物語がすべてです。二人とも一生懸命だったからこそ、悩み苦しみそしてそこから這い上がることが出来た。人間は弱いものだからそれを支える人たちは本気でサポートしなくちゃいけないという話しでした。
すごく感動した話しだったから、みんなに伝えたいと強く思いましたが、文章にするとなかなか難しいですね。伝わりましたか?
 その後は、和気あいあいと吉田選手の強さや明るさの話しをされました。
最後は塾生と記念撮影を行い、僕は金メダルを持たせてもらいました。吉田選手ありがとう!栄コーチありがとう!

平成22年度全国地域リーダー養成塾特別講義
日時 平成22年12月3日(金)13時30分~
場所 ルポール麹町3階マーブル

栄 和人 至学館大学レスリング部監督・全日本女子レスリングヘッドコーチ

 鹿児島県奄美市出身。昭和51年、鹿児島商工高校でレスリングを始め、日本体育大学に進学、全日本大学選手権で優勝。昭和58年には全日本選手権初優勝、昭和62年に世界選手権銅メダルを獲得し、ソウルオリンピック出場。現在は、至学館大学(元中京女子)レスリング部監督、全日本レスリングヘッドコーチに就任。教え子には、吉田沙保里選手、伊調千春選手、伊調馨選手がおり、オリンピックメダリストを輩出している。


吉田沙保里 アテネ・北京五輪女子レスリング55キロ級金メダリスト

 三重県津市生まれ。父の指導により3歳でレスリングを始め、世界ジュニア選手権、アジア大会、世界選手権、ワールドカップなど、立て続けに優勝。アテネ・北京オリンピックでは金メダルを獲得、ロンドン五輪での連覇を目標としている。最近では、平成22年9月に行われたレスリング世界選手権で優勝し、8連覇の偉業を成し遂げたほか、平成22年11月に行われた広州アジア大会で優勝し、アジア大会3連覇を達成した。